立川市立第三小学校の事件で感じたこと

 5月8日(木)に東京の立川市立第三小学校で、男性の不審者二人が校内に侵入し暴れ窓ガラスを割ったり、教員ら5人に暴行を加えたニュースが大きく報道された。報道された直後は詳しい状況がわからなかったが、この学校に通う児童の母親が学校に相談に来ていて、男性の不審者2名はこの母親の知人であるということが報道されていた。自分はこの段階で、この母親が学校に相談しにきていたのは、いじめのことではないかと思った。

 その後、母親はいじめの件で相談にきていたという報道があったが、ヤフーニュースのコメントなどで、文科省で何とか委員を務めている大学教授が保護者とトラブルにならないような学校側の対応の必要性を述べていたり、どこかの知識人のような人が学校のセキュリティの部分に視点をあてて語っているのを見るとやはりこの事件の問題の本質からずれているのを感じる。現在の学校の現場で一番対応が難しいのは、いじめの問題である。

「いじめ防止対策推進法」にひそむ問題点

 いじめの問題の対応の法的根拠となる法令は「いじめ防止対策推進法」という法律である。この法律の第2条でいじめは「児童生徒に対して、当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」と定義されている。したがって、いじめが「どのように」、「どの程度」、「どのような状況で」といったことは関係なく、被害を訴えた児童生徒が苦痛であったと訴えればすべて「いじめ」に該当し、学校はその問題に対処する法的な責任を負うのである。極論すると、例えば、好きな異性に告白し、それを断わって相手が傷ついて心身の苦痛を感じれば、これもこの法律に従えば「いじめ」に該当する。自分が周りに迷惑をかけていて誰かがそれを批判したり、注意することで相手が傷ついたならそれも「いじめ」。人間関係の中であまり気が合わず、ちょっとその人と距離を置いたことで、相手が無視されていると感じたならこれも「いじめ」になるのだ。これと同じようなものが会社などで「パワハラ防止対策推進法」として制定されたらどうか。職場はとても息苦しく、相手に何もいえなくなってしまい、仕事どころではないだろう。この法律がいじめの被害にあう児童生徒を救うため、被害者の立場にたって制定されたのはわかるが、ちょっと現実的ではない。ただ普通はこんなことで保護者もいじめの被害を一方的に訴えてくることはないし、人間関係のトラブルがあれば(こどもは、大人よりも相手との関わり方が未熟なところが多い)教師がそれぞれの立場にたって双方の生徒に必要なことを教え解決していくのが教育であろう。学校は教育の場であり、教師は教育をするのが仕事なのだ。これも大変なことではあるが、教師である以上、この責任は果たさなくてはならない。

教師は「警察官」や「裁判官」ではない

しかし、ちょっとした人間関係のトラブルでも被害を声高に訴え、相手生徒の排除や処罰を求める親も中にはいるのが現実である。もちろん警察沙汰になるような暴力や暴言などはっきりとした行為であればわかりやすいが、実際には「言った、言わない」「にらんだ、にらんでない」など双方の言い分が相違することが多く、事実がどこにあるかわかりにくい。基本的に学校は被害を訴えている側に心情に寄り添い、立場にたって行動したいのだが実際には一方の言い分だけで、相手生徒の責任を追及し処罰することは難しい。教師は教育(こどもの成長を支援する)することで問題の解決をはかるのが役割であり、「警察官」でも「裁判官」でもないのだ。立川の小学校の事件もこのような背景があって、母親側が納得せず、起こったものであろう。実際に教室に乱入することはなくても、保護者は怒りにまかせて怒鳴り込んでくるようなことは学校現場で日常的にあるのが現実であり、このようなことが教師の大きなストレスになっていることを文科省や教育評論家、社会に理解してほしい。