
直江兼続は、主君である上杉景勝を幼少のころから支え続けた名補佐役。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公でもある。また戦国時代を代表する智勇兼備の武将として名高く、特に「愛」の文字をデザインした兜はとても有名。兼続も景勝とともに、ずっと謙信に仕えていたことから、当然謙信の「義」の精神を受け継いでおり、それが色々な場面での決断や行動につながっていることを感じる。
「直江状」に感じる反骨精神

兼続の真骨頂は徳川家康から謀反の疑いをかけられた際に家康へその返答としておくった「直江状」。秀吉政権下で、力を持っていた「徳川」「前田」「宇喜多」「上杉」「毛利」の五大老はいわば同格であったが、秀吉の死後、徳川家康は有力大名と婚姻関係を結んだり、恩賞を合議によらず独断で決めたりと、秀吉の遺言を無視して豊臣家に代わって天下を取るべくその権勢を拡大させていく。ちょうどこの時は徳川とその他の大老によるマウントの取り合いの真っ最中。前田利家が亡くなったばかりの前田家も同じように謀反の疑いをかけられ、その対応に苦慮したが、利家の妻おまつは、自ら家康の本拠地江戸で人質になることにより解決を図っていた。五大老の筆頭といわれていた前田家は徳川に戦わずして屈服し「名」より「実」をとった形だが、その結果徳川の天下になってから前田家は加賀100万石を与えられ最大の外様大名として存続する。
しかし「武」を誇りとし、「義」を貫く上杉家は、兼続が直江状で正々堂々と自らの正当性を論じ、家康の所業を皮肉り、言外に攻められるものなら攻めてこいという挑戦的な態度をとったため、家康は上杉討伐を決め、会津に遠征し、それが、天下分け目の関ヶ原の戦いを誘発することになる。この時、兼続がどのような戦略を描いていたかわからないが、まさか関ヶ原の戦いが一日で勝負が決着するとは夢にも思ってはいなかったであろう。景勝は兼続を伴って、家康に直接謝罪をし、上杉家は何とか存続できたが、会津120万石から米沢30万石と大幅に領土を削られることとなった。
滅私奉公 愛と慈の領国経営


領地が削られれば、家臣を解雇するのが一般的で、上杉家も収入が四分の一になったので、人員削減が必要な状況であったが、兼続は「大変な時期だからこそ人が大切」と考え、昔からの家臣の首を切ることはせず、自ら率先して質素倹約に励み、治水事業や産業を興すことにより、家臣の生活を守った。上杉鷹山が名君として世に名高いが、そのお手本となったのが直江兼続の領国経営であり、兼続がいなければ、鷹山もなかったと思う。
また家が何よりも大事なこの時代に、筆頭家臣として一番多くの領地をもらっている直江家がなくなれば、少しは藩財政に貢献できると考え、自身の直江家をお家断絶にもしている。やはり、自分の決断によって石高が減らされ、藩の皆が困窮している状況には大きな責任を感じて関ヶ原以後も生きたのであろう。しかし、一大名の一家臣がここまで名を残し、尊敬されている例は他にはなく、兼続の上杉家への忠義、家臣・領民たちへの慈しみと「愛」の精神は、鷹山やJFKを感化させ、何百年の時を経て、今も政治家や経営者の行動にインスパイアを与えている。
直江兼続の名言
国の成り立ちは民の成り立つをもってす
天の時 地の利 人の和
後へは引けぬと決めたからには 己を貫き戦うまで
力によってねじ伏せようとしたものはいつかそれを跳ね返そうとする。しかし、真心をもって扱われた者は心で返してくれる。