石破首相の群馬県人への発言の是非

石破首相が昨日、群馬県を視察に訪れた際の発言が波紋を広げている。発言は、次のような内容だ。「我々西日本の人間は、『北関東』って聞いただけでなんか怖そう。で、群馬県って聞くと、なんか『怖い人がたくさんいそう』みたいなところがあってですね。あと『女性強そう』みたいな、なんか引いちゃうところがあるんですけど」というもの。映像を観ると笑いを交えながら、冗談として場を和ませようとしたリップサービスのように自分には受け取れた。しかし、「群馬や北関東の人に失礼」「女性や地域への差別である」という批判も各方面から出ている。確かにそういう一面はあると思うが自分は最近、「人権」が金科玉条の水戸黄門の印籠のように扱われ、「人権」という文言を持ち出し、それに傷ついた人が一人でもいるんだということになると、それが絶対的正義となり、それに反論することがタブーになってしまっている側面の方が怖いと考える。
トランプ大統領ははぜアメリカ国民から支持されるのか

アメリカで、なぜ無茶苦茶なことを言ってるような気がするトランプ大統領が一定数の国民から支持されているのか。それは現代社会の中で進んだ考えで正義とされている、多様性の尊重、移民の人権保障、平等、キリスト教保守派と考えの違うLGBTQの人権保障、人工中絶、進化論の教育(アダムとイブが人類を誕生させたという聖書の否定)などにウンザリしている一定の人たちがいるからだと思われる。そしてこれらの正義に反論すると、時代錯誤、差別主義者とレッテルを貼られてしまうため、声を大にして発言することができずにストレスを抱えている人々が、こうしたことへのタブーをぶち破って発言してくれるトランプ氏に共鳴しているのではないだろうか。
「カテゴライズ=差別」なのか

人権の侵害は大抵、集団内で優位な立場にある者が侵してしまうものである。組織として機能している集団では、相手を不利益な状況に追い込むことができる権力を持っている場合や集団の中で多数派のマジョリティーを形成する時もマイノリティに対して優位な立場に立つ。また人間の心の中に潜む他人に対する「差別」の感情もその一因となる。「差別」はなぜ生まれるかというとその要因の大きなものは「予断」と「偏見」であるとされている。そういう意味で「カテゴライズ」は確かに怖い部分を持っている。例えば、「〇〇高校の生徒は頭が悪い。ヤンキーだ。」「男だから勇気があるはず」「女だから料理や掃除が得意」「体の障害があるから人格者なはず」など。いわゆる入試の合格基準が低い高校であっても、成績の良い生徒もいるし、真面目な性格の子も当然いる。男性でも危険なことをするのが苦手な慎重派の人もいるし、女性でも料理、掃除が苦手な人も数多い。こうした、個々人を見るのではなく、その人が所属する集団の傾向によって個人の特性を決めつけてしまうことは、いわゆる「予断」「偏見」という他ないのだが、これが差別にあたるかどうかは、その人の存在を見下す感情があるかどうかなのではないだろうか。「カテゴライズ=差別」とはいえず、また人権の中で平等権(差別のない社会の実現)だけが重視されると、そのことが持つ絶対的な正義の価値観のもとで言論・思想・表現の自由が束縛されてしまう危険性もある。
人権という概念の理解の難しさ

そういう意味では、「差別」を社会から無くしていくために大切なのは、表面的な言葉狩りではなく、他の人の存在を尊重し、リスペクトする感性である。人権とは欧米で生まれた価値観、思想であるが、そこには人権は「生まれながらにして」「誰もが平等に持っているもの」ということが必ず枕詞についている。これは、人間を生み出した(創造)したのは神であり、神様が創造した人間は誰もが尊い存在であるというキリスト教の思想が大きく影響している。欧米の人権は「神の前に平等」なのである。日本はそうした創造主として神の概念がないので、どうしても本当の意味での「人権」というものを理解しにくいところがある。そのため日本の社会では、人権という言葉で過剰に他人を批判したり、自分の行動が知らぬ間に他人の人権を侵害していることが多いという面が多くあることを忘れてはいけない。