
小学校では2018年度、中学校では2019年度から道徳が教科化された。これは「美しい国 日本」を目指した安倍内閣の教育改革のためにつくられた教育再生実行会議の提言を受けおこなわれたもので、その背景としては各地で相次いだいじめ問題がある。しかし、道徳が教科化されて以降も文科省のいじめ認知件数は急激な増加の一途を辿っているので、道徳の教科化が本当に正しい判断だったのか、今後検討する必要がある。ちなみに安倍内閣は、教育界では悪評高い不適格教員の排除を目的とした「教員免許更新制」も導入し、失敗している実績も。
道徳の教科化で変わったこと

道徳の授業はそれ以前も存在していたわけだが、道徳が教科化されてこれまでとどう変わったのかを述べたい。まず第一はそれまで各地で教科書検定を受けていない副読本を使っていたのが、国定の教科書ができ、これを使用することになったこと。第二は文章表現による評価を行い通知表などに記載されるようになったこと。大きくはこの二点。授業の中身については道徳の教科化が行われた際にサブタイトルが「考え議論する道徳」とされ、「生徒の話し合い活動」が重視される授業スタイルになったということもあるが、以前は教科書がなかったがゆえに、各教員の創意工夫の余地があり、そのためかこの答えのない「道徳」が大好きな教員はたくさん存在していて、考え議論する授業スタイルも当然のごとく行われていた。教科化されて教科書が無償で配布されるようになり、これを授業では基本的に使用することになったことはよいにしても、当初の目的であったいじめ問題にも教科化の影響が結果として表れていないのであれば、単に学級担任の道徳評価の手間が増えただけということになり、改悪という他ない。
特別の教科って何?

教科化によって道徳の扱いは「特別の教科 道徳」となった。まじめで素直な人が多く普段忙しい教員はみんな「特別の教科」という変な名称に疑問を持っていないのだが、これは一体どういうことか。そもそも「教科」って何?という話になるのだが、「教科」の明確な定義は存在しない。でも世間での概念は、勉強しなきゃいけない対象、学問ということになろうか?しかし、数学や社会、理科などの教科はそれぞれ、科学としての学問の分野(人文科学、社会科学、自然科学など)が確立しており、義務教育段階でも、その科学的認識のもとに学習内容が構成されているが、道徳は果たして学問と呼べるものなのだろうか。道徳に似たものに人文科学の「哲学」「倫理学」が存在するが、それは過去の哲学者や思想家の思想体系を学ぶもので、社会科の学習の範囲。道徳がこれまでの内容を変えることなく、人間の心の持ちよう、内面的な価値を扱うものであれば、これは「哲学」や「倫理学」といった学問ではなく、教科として扱うのは不適当なものということがわかっているのに、教育再生実行会議と文科省が当時、絶対的権力を持っていた安倍首相に忖度して教科化の実績をつくりたいがために「特別の教科」という変な名称をひねり出したのであろう。また人間の内面的な価値体系を扱う道徳の授業で、あるべき価値を明示し、国家が決定した善悪の判断をこどもに押し付けるのは、おかしいので、結果を出さず「考え議論」した上で、それぞれ考えがありますねという終わり方をする道徳の授業が教科の学習だといわれてもスッキリしないのはADHD気質の自分だけだろうか。
特別ではない「道徳科」という学問領域の創設を
一応、誤解のないように書いておくが、自分は「道徳」が不必要と思っているわけでも、安倍氏が嫌いなわけでもない。「美しい国 日本」を標榜した安倍元首相が目指した道徳教育は、実質中身が変わっていないごまかしの改革である「特別の教科 道徳」にすることではなく、安倍氏も本意ではなかったのではないかと思うのである。道徳重視で教科化というなら、権力者への忖度でうわべだけ名称を変えるのではなく、新たに哲学や倫理学を統合整理して道徳科という学問としての体系を作り上げ、道徳科の教員免許をつくるくらいはしてほしかった。
そして日本人の精神性の美しさは安倍氏が評価していた「教育勅語」ではなく、日本社会に脈々と受け継がれてきた「武士道」にあると自分は思っている。自分にまかしてもらえるなら「武士道」を中心とした日本伝統の価値観や道徳観を学問として体系化し、道徳を本物の教科として授業を構成します。ということで次回は「武士道」について論じてみたい。