
教員をやっていると、生徒から時々投げかけられる問いが「どうして学校へ行って勉強しなくちゃならないんですか?」というもの。難しい問いではあるが、根本的な問いであるとともに、誰しもが一度は思うこの問いに何と答えるだろうか。
不登校の児童生徒数は年々増加して2023年度は34万人を超え割合は3.4%となっている。特にコロナ禍だった2020年度からはそれまでの年の倍以上の増加率で、近年特に急激に増加している。しかし、2000年度から2012年度にかけてくらいは不登校の児童生徒数はほぼ横ばいで増加していない。(下記全国PTA連絡協議会資料参照)
<一般社団法人 全国PTA連絡協議会 資料より>

ゆとり教育の是非
ではこの時期は学校にとってどういう時期だったのかというと、いわゆる「ゆとり教育」というものが行われていた時期である。2002年から始まったゆとり教育(移行期間はその2年前から始まっている)は児童生徒の学力低下の批判を社会や世間から激しく受けてあっという間にその方向性を転換し、2011年以降は「脱ゆとり」を掲げた学習指導要領に改定されたカリキュラムとなった。「ゆとり教育」と「不登校」の因果関係は科学的にははっきりとはしないが、時期的なものと不登校の増減率の見事なまでの一致は、ゆとり教育によって不登校の児童生徒数が抑えられていたと考えてよいだろう。もちろん、不登校の理由は様々でしかも複数の要因が絡み合っていることが多いので、これだけが理由とはいわないが、学習指導要領の「脱ゆとり」路線が、不登校の増加に一役買っているのは間違いないだろう。
学校に行かねばならない理由が薄れてきている
学校に行きたくなくなる要因は様々だが、やはり勉強がよくわからないから学校がおもしろくない、学校へ行って勉強しなければいけない理由というものが薄れてきているという点は大きい。「どうして学校へ行って勉強しなくちゃいけないんですか?」という疑問に社会や学校が答えられていないのだ。かつて自分が小中学生だったころは、多分答えは簡単で「勉強して、いい高校へ行ってその後、いい大学に入り、いい会社に就職すればいい人生がおくれる」というもの。過度な受験戦争は問題視されていたが、「勉強する」=「豊かな生活」という意識が昭和の社会の中にはっきりとあったのである。しかし、この価値観は時代とともに薄れ、勉強を強いられる理由が「平成」「令和」と失われてきている。しかも、今やオンラインでの自宅での学習でも出席扱いになる学校も多い。(出席にするかどうかは学校の判断)もし、会社勤務で研修をリモートで自宅でできるのにわざわざ出社する人がどれだけいるのだろうか。
学校へ行って勉強する理由をAIに聞いてみた
「どうして中学生は学校へ行って勉強しなくちゃならないんですか?」という質問をマイクロソフトのAI、「copilot」にしてみた。以下はその答えである。
「学校での勉強は、知識だけでなく社会で必要なスキルを身につける重要な場です。中学生は、読む力や計算能力だけでなく、自分の意見を伝える力や他者と協力する方法を学びます。また、さまざまな教科を通じて自分の興味や適性を発見し、将来の選択肢を広げることができます。学校は、個人の成長を助ける場であり、人間関係を築く練習の場でもあるため、中学生にとって欠かせない環境と言えるでしょう。」
教員を増員し、個に応じた教育を

うーん、やはりAIの回答はちょっと機械的な感じに聞こえる。この答えで生徒を納得させることができるのだろうか。でもこれを読むとやはり学校は社会に出る準備をするところということになる。しかし社会に出るために、数学の連立方程式や証明問題、理科の物理法則や化学式、社会の細かい歴史、国語の古文、英語の文法などは、はたして必要といえるのかは疑問。江戸時代の寺子屋で教えていた「読み書きそろばん(四数計算)」は出来ないと社会で生きていくのに苦労するだろうが、それ以上のレベルの学問を勉強が得意ではない人も含めた国民全員に強制する必要はないのではないか。もちろん、ゆとり教育の最も大きな批判であった、こどもの学力レベルが低下すると日本の国力が低下するという考えは重要だが、これだけ、「個性」「個に応じて」「自分らしく」という価値観が重視された社会で、勉強が得意な子も不得意な子も同じ学習内容を強いられるのは無理がある。授業の内容が同じであれば、簡単すぎて「ふきこぼれる子」、難しすぎて「落ちこぼれる子」が出てくるのは当然である。AIもうまく利用し、その子に応じた内容の学習にする必要があるだろう。そのためには、学習支援員ではなく教諭の配置を増やし、1クラスの授業を複数で受け持つチームティーチングで個に応じた「わかる授業」を行わねばならない。わからなければ学問の面白さは絶対に感じられないし、文科省が推進する「主体的な学び」などない。