
住所のある印西市役所に原付の登録に行く。必要なものはお店からもらったバイクの販売証明書と窓口にきた人の身分確認ができるものの2点である。今は押印を無くしていく流れで印鑑は要らないらしい。どうせ三文判ならあまり意味ないよねとずいぶん前から思っていたがようやく少し時代が前に進んだらしい。形式だけのものはどんどんやめたらいいよね。
特に形式的なものを大事にするのはお役所だと、学校現場にいても感じていた。公立学校もお役所(教育委員会も含む)の末端に位置しているので、意味のない形式的なことが結構ある。これだけ働き方改革ということがいわれるようになっているのに、昔からやってきたことを結構みんな疑問に思わず続けていることが多いのだ。
卒業認定会議と進級認定会議
公立学校で行われていることで意味がないと思うことは数多くあるが、中でも自分が昔から感じているのが、義務教育の公立小中学校における進級認定会議・卒業認定会議の存在である。この会議が学校制度の中でいつから存在しているのかはわからないが、自分は30年間学校に勤めていて進級認定、卒業認定しなかったという例を知らない。これは例え不登校で1日も学校に登校しなかった場合でもである。百歩譲って、この会議が必要だとしても、この意味のない会議に対して学級担任は生徒の進級や卒業を認めてもらうため(認めるのは校長)の具申書を作成し、会議で口頭でも進級・卒業のお願いをしなければならないのだ。
若いころに一度、職員会議で、担任が具申書を作成するのが無駄だと意見したところ、校長が顔を真っ赤にして「そういう問題じゃないんだ!」と大きな声で怒られた。自分も悪い癖で今考えると言い方が悪く、「どうせみんな進級させるんですよね」みたいなよけいな一言を入れてしまったせいもあるかもしれないが、心の中で「じゃあ、どういう問題なの?」と思ったけど、この人には言っても無駄なんだなと感じて、それ以上言葉にしなかったことがある。
生徒を原級留置にしますか?
生徒を進級や卒業させないことを原級留置(げんきゅうとめおき)というが、これは明治時代につくられた用語で、現在の学校でも使っている。小中学校における進級(各学年の課程の修了)の認定の法的根拠を調べてみたが、学校教育法施行規則の第57条に「小学校において、各学年の課程の修了又は卒業を認めるに当っては、児童の平素の成績を評価して、これを定めなければならない。」という条文があるだけ(中学校はこの条文の準用規定になる)なのだが、この70年ちかく前につくられたこの条文の中にある「児童の平素の成績を評価して」などは現在において有名無実の他ない。長期欠席の生徒は評定不能の場合が多いので、この条文を根拠に年齢主義に基づいて自分が責任を持って生徒の進級を認定すればいいだけなのに、普段から生徒の対応で大変な学級担任に具申書などの負担を強いる校長の気がしれない。(自分が勤務した学校でこの会議をなくそうといった校長先生は一人だけでした)
ただ本来のこの条文の趣旨に基づいて、「児童の平素の成績を評価して」生徒を原級留置させるなら、話は別なのだが・・・。そんな決断をする校長先生は今、いませんよね。
文科省の「教師向け参考資料(指導資料、学修評価など)」より抜粋
「我が国においては現在、制度上は原級留置が想定されているものの、運用としては基本的に年齢主義が採られている。進級や卒業の要件としての課程主義を徹底し、義務教育段階から原級留置を行うことは、児童生徒への負の影響が大きいことや保護者等の関係者の理解が得られないことから受け入れられにくいと考えられる。」
と文科省も現在言っていることなので、自分は学校教育法施行規則第57条を「小学校において、各学年の課程の修了又は卒業を認めるに当っては、修業年限の在籍をもって、これを定めなければならない。」と変更することを提案します。そうすれば法令上も学校で進級認定会議と卒業認定会議はいりませんよね。ただ自分の本音は進級や卒業の要件を課程主義にすることなのですが・・・。話が長くなるのでこの話は今はやめておきます。